国語の得意な子と苦手な子を分けるものは、読み取る速さの違いです。あっけないほど簡単な話で拍子抜けされると思いますが、これが真実です。
以前、小学6年生のお子さんのお父さんが、「国語があまりできないんです」と、模試の答案を持ってこられたことがあります。中身を見てみると、最初の方の問題はそれなりにできていましたが、最後の方になると×が多くなっていました。これは、最初の方に時間をかけすぎて、最後の方では時間がなくなってしまったためだと見て取れました。どうして、最初の方に時間をかけ過ぎたのかというと、読み取るスピードが遅かったからです。この子に、最後の方の×の問題を聞いてみると、時間をかければできていたことがわかりました。結局、読み取ることに時間がかかっていたため、全体の点数が低くなってしまったのです。
入試問題には、こういうスタイルの問題がかなりあります。慶応義塾大学文学部では過去に小論文の課題文の分量が12,000字ということがありました。本で言うと約20ページ分です。これだけの量の課題文を読んで、1,000字の小論文を書くのに、与えられた時間は全部で90分。読むのが好きな生徒はばりばり読めますが、読むことに慣れていない生徒は、読むだけで息切れしてしまいます。
では、この『読み取る力』はどのようにして育つのでしょうか。速く読む力ですから速読力と思われるかもしれませんがそうではありません。速読の練習をすれば、練習しないよりも速く読むことができるようにはなります。しかし、それだけではすぐに限界が見えてきます。大事なことは、『読む力』ではなく、『読み取る力』だからです。文章を読み取るというのは、ただ文字を読むことではありません。書かれている内容を理解する。
人はどのようにして文章に書かれていることを理解するかというと、そこに書かれている内容を、自分のこれまでに持っている知識や体験と関連づけて理解していくのです。つまり、文章を読むということは、自分の知識体系の中に、その文章を位置づけていくという作業にほかなりません。私たちは、頭の中にたくさんの引き出しがあり、その引き出しの中に読んだ内容を次々に納めていきます。まだ引き出しの準備ができていなくて入りきらないものは、仮に積んでおくしかありません。引き出しの豊富な人の頭の中は、何を読んでもきれいに整理されていきます。引き出しの数が少ない人の頭の中は、読んだものがどんどん積まれていくだけです。
だから、初めてのジャンルの文章は読むのに時間がかかります。また、読んでいるとすぐに眠くなってきます。仮に、物理の学習をしていない人が初見の物理学の本を読んだとします。ものの数分もたたないうちに眠気が襲ってくるはずです。プログラミングが初めての人が、プログラミングの本を読んだとします。どんなに易しく書かれている本であっても、これもすぐに眠気が襲ってきます。以上は、私自身の体験です(笑)。哲学の本ももちろんそうです。しかし、哲学の本を読みなれてくると、逆に、難解な言葉が出てくると、目がらんらんと輝くようになってきます。頭の中に引き出しがあるジャンルは、読んでいて楽しいのです。
中学生や高校生で国語の得意な生徒は、どんなに学習が忙しくても、合間ゝに本を読んでいます。受験期間中であっても、受験勉強で疲れた頭を休めるために好きな本を読むという休息の仕方をします。サッカーの好きな子が、学習で疲れた頭を休めるためにボールを蹴るとか、バスケットの好きな子が、学習で疲れた頭を休めるためにボールをつくとかということと同じです。その子たちは、どうしてサッカーやバスケットをそれほど好きになったのでしょうか。それは、たくさん練習したからです。読書も同じです。たくさん読むから好きになり、好きになるからますます読むようになっていくのです。
小学校低学年のころによく本を読んでいた生徒が、学習が忙しくなるにつれてだんだん読書から遠ざかるということがおこります。これは、大人の責任です。受験という目先の成果に追われて肝心の根を育てることを後回しにしていることになります。どんなに忙しいときでも読書の時間を確保することは、常に心がけねばならないことでしょう。そして、そのことこそ『読み取る力』獲得へ遠回りなようで最短の取り組みなのです。