アルゴの中学受験日記

中学受験を通じて成績と連動する真の努力の形を伝えます

国語力をつくる

「文字読み」と「文節読み」

「文字読み」と「文節読み」

「あ い う え お」の五十音図ができたのは、いつごろだと思われますか?「いろは歌」は空海の作と言われています。しかし、五十音図はイメージとして明治以降(教育が制度化された頃)かというふうに思われがちです。ところが、これが中世のころにはできあがりつつあったそうです。やはり、空海と同じ僧侶達によって。インドから伝わった経典が、まず中国語に翻訳され、それを日本人が読みあげる。それを、日本語としてテキスト化するために、音を文字にするシステムが考えられたのだとのこと。

私たちは、ごくあたりまえに日本語を話しますから、ひらがなもカタカナも(漢字は中国から来たとして)すうっと自然に出てきたように思いがちですが、それらが形づくられるためには、長年にわたる発音を区別し整理して、文字に当てはめるという僧侶たちの研究があり、それは気の遠くなるような作業だったことでしょう。

日本では、「読む」とは「声を出す」ことです。「分かる」とは、「声を自分の体で震わせる」ことです。「分かる」は、「声(音)を分ける」ことなのです。「分かった?」と聞いているのは、「声(音)分けられた?」ということです。

よく、保護者の方からご相談として寄せられることに「うちの子は、なんだか、たどたどしく音読していますが、あれで分かっているのでしょうか。」というのがあります。親御さんとすれば心配でもあり、不満でもあるのでしょう。そういう場合、大概その子は「文字読み」をしています。
「文字読み」は音読の第一歩ですが、表音文字であるひらがなをそのままなぞると、なんの意味を言っているのかわからなくなります。

しかし、ご安心下さい。それらは全て「分かって」はいるのです。彼らは、はじめて何かの言葉を使うとき、戸惑いながらも勇気を出し、トンチンカンなことになって笑われたり、気まずくなったりもすることもありますが、胸を張り次の音へと挑んでいます。そんなとき、私達は一歩踏み込んで「文節読み」の練習をしてもらいます。意味の通る最小単位を認識しながら読むことにより、音は正確さを増し、意味の理解はより深まり、聞いている方も安心できます。

『門前の小僧習わぬ経を読む』ということわざがあります。このことわざを聞くと「養育環境の大切さ」だとか、「継続の成せる業」だとか、さまざまイメージが浮かんできます。けれども、これは本来「分かる」ということの本質を示している情景なのではないでしょうか。音読では、納得の行く流暢なものかどうかを吟味してもなんにもなりません。私は、そんなことよりひとつひとつ言葉が「分けられ」、「文節読み」として心のなかで響いていくさまを見守り、励ましていくことの方がずっと大切だと考えます。

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