今年もなんとか桜の花の季節と新学期の時期がうまく重なりそうです。今頃になると、いつも思い出すA君のお母さんのお話があります。それは……
その日は始業式。A君がたくさんの教科書を持って帰ってくる日でした。「教科書に名前を書くのが宿題」ということでおもむろに食卓でペンを握ったとのこと。
心なしかうれしそうなA君。思わず「どうしたの?」と聞くと、「○○くんが『習っていない漢字を書いてもいいんですか?』って聞いたら、先生が『漢字に習っている、習っていないはないぞ。知っている漢字はドンドン書きなさい。』って言ってた。
だからぼくの名前も漢字で書いていいんだって。」と、とびきりの笑顔でのご報告と相成りました。
悪戦苦闘の末、書いた難しい漢字。その字一つだけが自分の存在を主張しているようだったとのことでした。
それもそのはず、今までは「習っていない」という理由だけで、書くことを許されなかった字なのですから……。
「常日頃から習っている、習っていないなんことにこだわり、名前の漢字からさえも子供を遠ざけるのはおかしな話だなあ、と思っていた」とA君のお母さん。
「今まで虐げられてきた息子の名前に光を当ててくれてありがとう!」 先生の英断に大きな拍手!という気持ちで一杯になったそうです。
漢字は一文字でいくつもの意味を有するすばらしいものです。また漢字を使うことで読みやすい文章を作る効果もあります。漢字をたくさん覚えて損をしたという話は聞いたことがありません。
そんな便利な「漢字」を覚える方法の一つにたくさんふれるということが挙げられます。教科書、ノート、筆箱等々、難しい漢字が使われていたら……。きっと名前と照らし合わせてすぐに他の子もその字を覚えます。
自分の漢字と一緒なのに読み方が違うことに気づいたら、そこでまた漢字の世界が広がります。
しかし、実際には「まだ習っていない漢字をどうして書くの?」と、怒る先生が存在するのです。
習っていないことを知っていることは、その子が本で得た知識かもしれないし、親に教えてもらって覚えたものかもしれません。しかし、いずれにしても他の子より少しがんばった結果です。
それなのに、誉めるどころか怒ってしまうとは、なんて悲しい教育でしょう……。
教育とは「知的好奇心」をかき立てるものでなければならない。私は常にこう考えています。
人と同列であることを良とする発想は、この「知的好奇心」を奪ってしまいます。どんな子供達にも、それぞれ「伸びる芽」があります。
その芽が漢字という部分ならば、小さいことにこだわらず存分に誉めて伸ばしてあげればいいのです。その芽を伸ばそうと考えず、「習っていない」というちっぽけな理由で、逆に摘むという行為に弁解の余地はありません。
日本人が、存分に自分の意見を言えない理由の一つがこうした「同列」の教育に起因するといわれて、久しく経ちます。
人は、認められることで相手を認めることの大切さを覚えていくのだと思います。まず、子どもたちの努力を「認める」ことから始めましょう。
拙い字を懸命に書いているA君の姿を微笑ましく想いながら、伸びていく芽を育むことの大切さを感じた春のひと時でした。