抽象的に考える能力とは、現象の背後にある本質を考える能力です。
高校生が化学の宿題を見せてくれました。
どのページもほとんど計算問題です。
確かにこういう練習問題を多数やれば、計算には慣れるだろうとは思いましたが、あまり知的な学習とは思えませんでした。
やればできる問題に取り組むのは、時間の無駄です。
私がもしそういう宿題を出す立場の先生だったら、次のような宿題を出します。「この問題集を答えを見ながら取り組んで、自分が答えを理解できなかった問題だけを書き出してくること」。
できる問題を作業的にやるのではなく、できない問題を自覚することこそが真の学習だと思います。
ところが、子どもたちも先生も保護者の方も、多くの場合、できる問題を解いている姿を学習している姿と思いがちですが、本質は違います。
できなかった問題にも二種類あります。
単に記憶していないためにできなかった問題は、本当の意味でできなかった問題ではありません。
答えを見ればすぐにわかるような問題が、こういう問題です。
本当にできない問題とは、問題の背後にある本質がまだ理解できていない問題のことです。
このような問題ができるようになったとき、人間の抽象能力が一つ前進したことになります。
化学や数学のような問題に限りません。
むしろ、学校の学習では評価される機会があまりない分野にこそ、このような抽象能力が必要とされてきます。
この抽象能力を高める一つの有効な方法が読書です。
読書は、言語によって物事を抽象化します。
しかし、先に挙げた計算の宿題のように、抽象能力をあまり高めない読書もあります。
それはどういうものかというと、現象こそ多様に見うけられますが、その背後にある本質にあまり変化がない読書です。
これは計算練習と同じで、見た目には次々と新しい読書的課題に取り組んでいるように見えますが、やっていることの本質はもうすっかりわかっているという読書です。
読書の目指す方向は、抽象度の高い読書、つまり難しい本を読むことにあります。
自分が既に知っている分野だけでなく、未知の分野に読むジャンルを広げていくのが読書の発展の方向です。
しかし、人間には成長に応じた発展段階があります。
小学生のころから、難しい本や未知の分野の本を読ませようとすれば、かえって読書量が確保できなくなるというマイナス面の方が大きくなります。
小中学生のころは、楽しい本や感動できる本を中心に、多読に重点を置く必要があります。
多読によって、そのあとの読書の発展につながる言語能力の基礎ができていきます。
しかも単なる多読でなく、難読を志向した多読、つまり自分の興味の持てる分野で説明文や意見文に広がる読書をしていくと、この能力はさらに深まります。
高校生や大学生のころは、難しい本を読める時期です。
このころになると、難しいことそのものに挑戦したいという知的好奇心が旺盛になってきます。
この時期に、歯が立たないような本に挑戦することで本当の読書力がついてきます。
しかし、これもただ難読をするだけでなく、その後の新分野に広がるように未知のジャンルに広がる難読をしていくことが大切でしょう。
多読→難読→新読という形で、人間の抽象化能力が形成されていきます。