受験を生業にするものは、己が成功体験に囚われます。
囚われないでいようとしてもその拘泥に足を取られ、のたうちまわることになります。
つまるところ、生徒たちとともに受験に臨む私たちの本来の姿は、何もわからず知らずして、もがき苦しんでいることのほうが多いのです。
さもお見通しというご託宣を述べても、述べることに100%の自信があるわけではありません。
ただ経験則に照らし述べているに過ぎないのです。
しかし、私たちのこの悩みや苦しみは見えているからこその悩みであり、苦しみだといこともできます。
俗にいうところの「〇〇〇ヘビに怖じず」の逆といえるでしょう。
当然データに基づく受験指導と銘打ち、さも大易者よろしく、占います。
しかし、その言すら80%確率論に照らした易であり、9回裏ツーアウト逆転満塁ホームランや4コーナー大外からの大捲り大穴的中などの卦は絶対でないのです。
確かに、受験は博打ではありませんから、丁半好きな方に賭けてなどというあやふやな対応は現に慎むべきです。
しかし、ヒトと生まれた限りは、自分の人生の全てを一度ぐらい賭けてみてもいいのではないでしょうか。
失敗を恐れて、妙にこじんまりとした選択をする生徒や親御さんが増えているのはいかがなものなのでしょう。
確かに80%確率論を後生大事に伝える私たちも罪なのかもしれません。
しかし、命まで失うことはないし、失敗しても再出発もできます。
逆に失敗したのちの再出発にこそ、その生徒の人となりを作る機会があるとさえ思うのです。
もう亡くなられましたが字幕翻訳家の太田直子さんが、ご自分の人生が紆余曲折ののち、いや先の見えない行き当たりばったりの繰り返しののち、偶然の成り行きで字幕翻訳家として大成していったことを踏まえて、こんなことを書かれています。
「参考にしてもらいたかったのは、(中略)『こんなのは自分のやりたい仕事じゃない』と苛立って、目の前にある仕事を見下しておろそかにし、それが『自分に正直に』生きることだと考えるのは、まちがっている。そういう人たちは、なんとなく子どものころから思い込んでいる『こうあるべき物語』にとらわれすぎているのではないだろうか」
「自分の道のモデルはどこにもない。己の足で地を踏みしめて道をつけてゆくのみ。映画や小説とちがって、人生に『わかりやすい物語』はないのだから。」と・・・。
どうせ先の見えないものなら、今目の前にある困難に目いっぱいぶつかってみませんか。
たとえ甲斐なくとも、そのぶつかった仕儀だけでも、必ず道となっていくはずです。