コロナ疲れという言葉まで生まれたこのご時世、みなさんは多少なりとも余裕のある生活を送っていますか。
余裕……。これは人によって感じ方が違う曖昧な言葉です。
少しこの言葉について考えてみましょう。
ある日、学校で「お母さんの顔を描きましょう」という宿題が出たとします。
どんな紙に描いてもよいし、何枚描いてもいい。
上手く描けても描くなくても、成績には一切関係ありません。
みなさんのお子さんたちはこんな宿題に出会ったとき、さて、どんな反応をするでしょう。
A君:「お母さんの顔かあ。ぼくはお母さんの笑っている顔が好きだから、笑顔のお母さんにしようかな。あっ、でも、怒るときもあるからこわい顔も描こうかな。絵の具、確か机の引き出しに入ってたな。今日はお母さんの顔をよく見てみよう。」
B君:「え~、何でお母さんの顔なんて描くかせるんだろう。母の日なんてまだだいぶ先だし。塾の宿題もやらなきゃいけないのに。面倒だな。適当にそこら辺にある紙に描いちゃえ。」
あなたのお子さんはどちらでしょう。
もし、この宿題に楽しく取り組めるA君なら、それは、みなさんが余裕のある生活をしていらっしゃるということです。
でも、逆にB君に近い反応を示されるお子さんだったら、ちょっと黄色信号。
私は、余裕のある生活とは、いつも何かを受け入れることのできる時間を持っていること、また、受け入れようとする気持ちを持っていることと、考えています。
そして、この余裕というものが、なにものにも増して大切なものだと思っています。
なぜなら、余裕をなくしてしまえば、考えることを放棄してしまうことになるからです。
パスカルの「人間は考える葦である」という言葉を出さずとも、考えることこそ人間であることの意味だということは、万人が認めるところです。
学校や塾での授業を、一生懸命メモにしながら聞いて、家に帰ってから復習し、次の日の予習をすることは、もちろん大切です。
しかし、覚えることと考えることは、そもそも使う思考回路が違います。
「これはどうなのかな。どうしようかな。あっ、こうしたらどうだろう。」
こう考えることができるのは、心に余裕があるときだけです。
時間がなく、あせっているときは、考える暇があったら暗記にその時間をまわし、一つでも覚えたいという心境になっています。
久しく「ゆとり教育」の悪弊が叫ばれています。
もともと、ゆとり教育とは、子供たちの「自ら考える力」・「生きるために必要な力」を育てようという主旨で始まったものです。
けれど、学力低下の犯人とされ、見直されるに至り、現在の膨大な知識に偏った指導要領に逆戻りとなりました。
では、じっくりと考えるということは本当に必要ないのでしょうか。
そんなことはありません。
学校の学習に関係すること・しないことに関わらず、じっくりと考えることは必要なことです。
考えれば予想する力がつき、予想できれば様々な新しいことに対応することができます。
この数ヶ月を見ても、私たちを取り巻く状況は大きく動いています。
ましてや、これから社会に巣立つ子どもたちはどんな時代を迎えることになるでしょう。
新しい生活様式を必要とする社会で、彼らは何を考え、何を思うのでしょう。
瞬時に的確な判断を要求される時代を生きていくことは確実です。
そのとき、「考える力」・「予測する力」・「対応する力」がなければ、状況を補足することさえできないでしょう。
その時生きる真に必要な力は、余裕ある生活から生まれるものです。
もし現在あなたが、時間がない、余裕がない、と感じていらっしゃるなら、なおさら、今ちょっとここで立ち止まり、ご自分の生活を俯瞰してみてください。
コロナ禍の自粛ムードの今だからこそできるほんのささいなことが、あなたのお子さんが明日を「生き抜く力」をつくるキッカケになるかもしれません。
中学受験を考える学習塾『アルゴ・システムズ』
代表 村元 謙二(文責)
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