アルゴの中学受験日記

中学受験を通じて成績と連動する真の努力の形を伝えます

今思うこと

精神的風土としての漢語

精神的風土としての漢語

私ももうすでに60余才。自分が若い時は他の人を見て「エー、60才!結構お年やん」と思っていましたが、いざ自分がなるとその稚拙たること。実際、年齢八掛け論が跋扈する今日、その論に従えば、私もまだ50才そこそこ。年配者から頼りない、物足りないと苦言を呈されるのも無碍なるかなというものです。

そう考えれば、いまの高3生(18才)=14~5才、中3生(15才)=12才と繰り下がるので納得できるところも…。若年寄りのように老成しろとは言いませんが、明治の元勲の活動年齢や無言館の画学生たちの心の強さを見聞するにつけ、今を生きる私たち以降の世代全てに共通する軽佻浮薄とも言うべき軽さに、如何ともし難いものを感じてしまいます。

果たして、いつから日本人は古来からの『かるみ』という品性を捨て、似ても非なるところの『軽く』なってしまったのか。敢えて、暴論を言えば、学校教育から漢語や漢文の本格的な学習が削減されてからではないでしょうか。「四面楚歌」「臥薪嘗胆」「鶏鳴狗盗」「刎頸の友」「髀肉の嘆」「李下の冠」「一炊の夢」「泣いて馬謖を斬る」…等、日本人の精神的風土を形成してきた言葉が、殆ど死語になろうとしています。

私たちはもう一度、成熟した思慮深い人格形成のため、漢文の素養の習得が図られる時期を迎えているのではないでしょうか。「論語読みの論語知らず」は困りますが、読めてこそ見えてくるもの、考えることができる素地が形成されるのでは…。

と思いつつ、今日も「蛇足」ながら「羊頭狗肉」にならぬよう「完璧」を求め「切歯扼腕」しながら「切磋琢磨」の日々を送ります。「桃李、門に満つ」ことを念じて…。

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