「ワガママ」とか「ジコチュー」というのは、いけないものの代表のように言われています。
誰かのことを指して「あいつはワガママだから」と聞いたら、まずは好感はもてません。
では、まったく「ワガママ」や「ジコチュー」といわれない人が、本当に「いい人」なのでしょうか。そういう人を、めざしていくべきなんでしょうか。
答えは、「NO」です。
まったく誰からも「ワガママ」とも「ジコチュー」とも思われない人というのは、もしかしたら、いつも誰かの意見に賛成している人かもしれません。
いつも、誰かに従っているだけなのかも。
「これは好き」「あれは嫌い」という自分の意見は、もともと少し自己中心的な気持ちです。
明確に自己を表現しない人は、特別嫌われることもない代わり、特別好かれることもないでしょう。
つまり、いつも自分の意見にうなずいてくれるだけの人ということになります。
そういう人と友達になりたいと思います?
そういう人といて、面白いでしょうか?
かといって、勿論みなさんもわかっているとおり、本当にいつも「ワガママ」で「ジコチュー」で、自分の意見ばかりを押し通そうとする人とも、おつきあいはしたくないのは明々白々です。
ということは、「ほどよくワガママで、ほどよくジコチュー」でなければならないことになります。
実は、この「ほどよく」というところが、なにごとでもなかなか難しいのです。
「ほどよく」って、どれくらいでしょう?
こんなことは、本にも書いてありません。
何かで測るわけにもいきません。
誰かに聞いても、わからないでしょう。
では、どうすれば、この「ほどよいワガママ」に至ることができるのでしょう。
これはもう、経験に尽きます。
いろいろな人との関係性の中で、嫌われたり、好かれたり、けんかをしたり、あやまったりしていく中で、どれくらいが「ほどよい」なのかを、自分自身で学んでいくしかないのです。
そして、百人百パターンの経験を通じて、百通りの個性が形作られていきます。
さらに、蛇足を承知で述べるならば(笑)、文章作法においてもこのことは同じといえます。
自分なりの意見、自分なりの経験が書かれていない文は、さらっと読めて、特別何の引っかかりもありません。
どんなにいいことが書いてあったとしても、個性のない文章は読んだ人の心の中に、何のざわめきも引き起こしません。
つまるところ、これが「文は人なり」といわれる所以かもしれません。
何事も対しても「ほどよいワガママ」「ほどよいジコチュー」でありたいと思います。