アルゴの中学受験日記

中学受験を通じて成績と連動する真の努力の形を伝えます

今思うこと

「頭の良さ」ということ

「頭の良さ」ということ

「知能を高めること」について、ご質問をありました。

「頭のよさとはそもそも何か」、「頭のよいことは幸福なことなのか」という内容でした。

今回は、この二つを中心に私見を多少述べたいと思います。

まず、「頭のよさ」とは、そもそも何かということです。

私は、勉強ができること、または成績がいいことが頭のいいことではないという前提のもとに、「頭のよさ」を考えます。

というのは、成績と頭のよさの間には、確かに相関関係は存在しますが、それはイコールではなく、微妙に異なる面があるからです。

その異なるところというのは、成績はがんばって学習すれば誰でもよくなるという単純な因果関係の中にあります。

対して、「頭のよさ」は頑張る頑張らないを超越したところに存在しています。

「牛をつないだ椿の木」というお話があります。井戸を掘ることばかりを考えている海蔵さんは、井戸を掘らせてくれない地主のおじいさんの病気と自分の井戸掘りの計画を平面的に考えます。地主のおじいさんの息子の代になれば、井戸掘りができることがわかっている海蔵さんに対して、海蔵さんの年老いた母は言います。「おまえは、悪い心になっただな」。地主のおじいさんの死を願い、今、井戸が必要なのに困難を乗り越えて行動を起こさない海蔵さんが、母は歯がゆく思ったのです。海蔵さんは、井戸掘りを目的として考えていました。母親は、何のための井戸掘りかという目的を考えることができたのです。

たとえれば、海蔵さんは成績のいい人で、母親は頭のいい人ということです。

しかし、頭のよさは普段は隠れていて見えません。課題が高度になったとき、初めて頭のよさが二人の違いとして見えてくるのです。

子供の成績をよくしたいと思わない親はいませんが、子供の成績をよくするために、かえって頭を悪くするような子育てをしていることもあるのです。

たとえば、計算問題の反復や漢字書き取りの反復という勉強法があります。

これらの勉強法は、学習の土台を作るためには大切ですが、やりすぎれば頭を悪くします。

辞書や計算機は、人間の記憶力や計算力よりも優れた能力を持っていますが、だれも、辞書や電卓を「頭がいい」とは言いません。

今、世の中で成績がよいと思われている人の中には、辞書や計算機を高度にしたような意味での成績がよいという範疇の人も多いのです。

計算練習や漢字の書き取りやいろいろな知識の記憶などは、抽象度の低い勉強ですから、やればやるだけ成果が上がります。

速読練習なども同じです。やればやるだけ速く読めるようになります。

「頭のよさ」とは、ものごとを多面的に考えることができる能力であり、常にそのような指向性を持って事物に当たることから成長していくものだということです。

次に、「頭のいいことは幸福か」ということですが、そのためには、まず、成績のよさと頭のよさを区別して考える必要があります。

成績のよさと幸せとは、あまり関係ないだろうとだれしも思うところです。

身の回りを見れば、成績と幸福に関係がないと思われる事例はたくさんあります。

だからといって、成績が悪いと幸福なのかと言えば、間違いなく否ですから、成績のよさと幸福との間には大きく相関関係はないことになります。

では、「頭のよいことは幸せか」と言えば、それは幸せなはずです。

人間は犬や猫よりも頭が良いとされます。

試しに、来世で、全然悩み事のない犬や猫として生まれるか、苦労の多い人間として生まれるかという選択があったら、だれでも人間を選ぶと思います。

それは、苦労が多くても人間は犬や猫よりも頭がよく、高い次元から物事を見ることができるからです。

人間が犬や猫と違うところは、この頭の良さに起因する知的好奇心かあることです。

二宮金次郎が薪(たきぎ)を背負って歩きながら本を読んでいる像は、最近あまり見なくなりましたが、あの姿は、人間の学びたいという情熱を象徴的に表しています。

二宮金次郎の像を見て感動できる人は、学ぶことの感動を知っている人だと思います。

吉田松陰の若いころの日記には学問への純粋な情熱が綿々と綴られています。

金次郎と松蔭の取り組んだ学問は、成績のためでも学歴のためでもありません。

人間が生まれつき持っている、学ぶことへの欲求、知的好奇心でした。

つまり、人はこの知的好奇心の充足を感じるとき心の幸せを感じ、その幸福感の中で次なる知的欲求への取り組みを図っていくのではないでしょうか。

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